2009年7月23日(木)
  訃報

 月の初旬、友の訃報が舞い込んできた。
 突然の脳出血であったそうだ。
 岐阜県在住の友であり恩人でもある君との付き合いは、もう30年近くにもなるか。
 私より一つだけ年上の61歳、いかにも早すぎる死である。
 何十回酒を酌み交わしたろう。
 訃報のあったその前の週にも岐阜を訪れゴルフをし、酒宴を楽しんだ。
 まったくいつもと変わらない君だったのに。
 飲むほどに声は大きくなり、未来を語る。
 自らを励ますように他人を励まし、又あるときはキッパリとした態度で他人を批判する。
 敵を作る事さえあえて良しとし、働く力に変えていた。
 自らの繊細さを否定するかのように豪放磊落を身にまとって、走る。
 私には到底真似の出来ない力強い生き方を貫く、そんな君が好きだった。
 思い出やエピソードなど書き始めたら山ほどあるが多すぎて、切なくて、語る気にはならない。
 61年の人生を猛スピードで駆け抜けたその道中で落とした種は、すでに芽を出し花を咲かせたものさえある。
 もうすこし、いや、もっともっと走り続けてほしかった。

 向こうではゆっくり腰を下ろして待っていてくれよ、そう永くは待たせないから。
                                                                      合掌





 2009年7月28日(火)
 浜名湖

 もうずいぶん浜名湖へ行っていない。
 去年のお盆に行ったきりだから、丸一年がたってしまった。
 師匠とも随分ご無沙汰してしまったし、向こうの仲間にも忘れられたかも知れない。
 そろそろ行かねばと思いながら、なかなか腰が上がらない。
 浜名湖ではいま、ルアーで黒鯛やキビレやマダカを狙うのが流行っているらしいし、マゴチなんかもルアーで釣るらしい。
 やってみたいと思うが、そう簡単ではないだろう。
 私の知らない新しいメソッドがあるはずだから、それを習得するには時間がかかりすぎる。
 師匠に教わったキビレ釣りしか出来ない私には無理かもね。
 船もマリーナでメンテナンスはしているが、実際に海で動かしていないとエンジンの調子や梶の具合はなかなか本調子にはならないもの。
 浜名湖寮も誰~れも使っていないから掃除が大変だ。
 フゥー!それを考えると益々腰が重くなるな。


 以前、花火見物がてら、友人の家族を誘って舘山寺の海水浴場前に船をつけた事がある。
 花火を見るボジションだから、魚の方は殆どあてにしていなかったが、とりあえず岸に向かって投げ込んでおく。
 ドカン、ドカンと間近で大きな音がしているのだから釣れるはずもない。
 小一時間花火が続き、夜空ばかり見上げていたので首が痛くなった。
 首を回しながら、ふと竿を見ると絞めこんでいるじゃないか。
 合わせもしていないのに勝手に掛かっている。
 手に取るとものすごい引き、一気に横走りしたかと思うと沖に向かって一直線。
 ドラッグを弱めにしておいたので道糸がどんどん出てしまう。
 キビレではないしマダカでもない、ましてや鈍重なエイの走りでもない。
 スピードが違うのだ、指でスプールを押さえても止まらない。アチチッと指が焼ける。
 150m巻いてあった道糸がもう残り少ない。
 ままよとドラッグを絞めて止めにかかると、あっさりと糸が切れた。
 いったいあの魚は何だったのだろう。
 どう考えたってあの走り方はヒラマサやカンパチのそれだ、しかし汽水の浜名湖奥にそんな魚がいるはずもない。
 なんとか姿をみたかったなあ、何だったのだろう。

 行ってみるか、今年もお盆に。
 気合を入れなおして、行ってみよう、浜名湖の仲間とも会えるかも知れない。
 さて、そうと決まったら早速師匠に電話電話。



2009年11月11日(水)
魚釣り、私的考察

私にとって釣りって一体何なのだろう。
趣味(娯楽)、スポーツ、狩猟本能、自然回帰願望、どれも少しは当たっているのだが、どれも100パーセントの正解ではなさそうである。
ましてやパチンコや競輪・競馬、海外でやるギャンブル等の射幸心とは全くちがう。(お前の釣りはめったに釣れないのだからギャンブルみたいなもんだろうと言われれば否定は出来ないが)
釣道具、餌、交通費など結構費用はかかるが、投資した分に見合う収穫はない。黒鯛なんか魚屋では数百円で買えるし、ましてやメジナなんぞに殆ど市場価値はない。
趣味のゴルフ、麻雀などにはまった時期もあるが、そう長続きはしなかった。
スポーツのサッカーもたまにはオヤジ倶楽部(OSC)でやるのだが、こちらはもっぱら運動不足(メタボ)解消のため。
祖先からの遺伝子に刻まれた狩猟本能は確かにあると思う。
昔、初めて石鯛を釣り上げたとき、興奮で膝が笑ったのを覚えているし、今でも大型の魚を釣った時の満足感は何にも代えがたいものがあるのも事実。
でもそれだけではない、子供のときから延々と50数年「たいして釣れない釣り」を続けていられるのにはもっともっと深い訳がありそうだ。
自分自身の心を分析するのはもっとも難しい作業の一つではあるが、そろそろ結論が見えてきても良い年齢だ。
「たいして釣れない」からこそこの次はと思い、又行きたくなるんだという人がいる。
でも、釣れたら釣れたで又行きたくなる。
心の静寂を求めて釣りに行く、と、もっともらしく書物に書いている人もいる。
私の釣りは忙しい、仕掛けを替え餌を替え昼飯も食べずに釣りつづける事だってままある。とても静寂なんて感じる暇はない。
現実逃避の為釣りに行くというのもある。
アイザック・ウォルトンの著書(釣魚大全)(原題:ザ・コンプリートアングラー)なんかも清教徒革命で英国中が混乱していた時期にそれから逃れるように「完全なる釣り人」なんていう著書をしたためて、ある意味自分から逃げ切ったんじゃないだろうか。
確かに、仕事が忙しく行きずまっている時に、なんとか時間を作って釣りに出掛けた事もたびたびあるが、そうでない時だって私は釣りに行く。
あるとき、税務署から、「来週月曜日に税務調査に伺います」とお達しがあった。
何の不正もしていない(つもり)の私は金曜日から三宅島に釣りに出掛けたのだが、間の悪い事に日曜日は海が大荒れで帰る事ができない。しかたなく月曜の朝に電話で事情を説明し、調査を延ばしてもらう事となった。
後日、調査日に税務署員を待っていると、なんと、異例なほどの大人数でやってきて徹底的に調べはじめたのだった。
脱税隠しの時間稼ぎと思われたのだろう。数百万円の追徴課税を命じられ、当時の我が社にとって大きな痛手を食らう事となってしまったのだったが、決して税務調査がプレッシャーとなって釣りに逃げた訳ではない、普通に釣りに行っただけだ。
自然回帰願望。
私は海が好き、と言うより水のある所が好きだ。水辺にいると心が騒ぐ。しかしこれだってそこに魚がいるかも知れないと思うから。
山や森には大した興味はない。
親の影響は無いと思う。記憶に残っている子供の頃親父から聞いた釣りの話は、サイパン丸と言う客船で働いているとき、停泊中の船から釣りをして、大きなヒラ鯵を釣ったという話だけ。親父は釣りを趣味にしていた訳ではないし、子供の頃私に釣りを教えてくれた人もいなかった。
一人で釣りに行く子供なんて、なんて孤独なやつと思うかもしれないが、友達はたくさんいた。ただ、釣り好きの友達がいなかっただけ。
今、私は子供に釣りを教えているが、これだって一緒に行ければ楽しいからで、子供の将来に釣りが役に立つなんて事は思ってもいない。「釣り馬鹿日誌」の浜ちゃんなんてマンガの中の絵空事。
私は普通に釣りに行く、習慣のように釣りに行く、そして大した釣果もなく帰ってくるのが普通である。
釣りに行ったという満足感はある。
そして暫くすると薬がきれ始め、また釣りに行く、ずーっと私はこれの繰り返し。
釣りに大した野望がある訳ではない、ただ釣り糸を引きちぎっていった「ギューチャン」の顔はいつか見てみたいが。
釣りに行く理由は人それぞれだから、釣り好きの本質なんて、それぞれが勝手に決めればいいのだろうが、自分がなんで釣りを続けてきたのかはやっぱり解らない。
しかし、はっきり言えることは、私にとって釣りはもう生活の一部であり、喫煙や飲酒と同じ麻薬性をもった習慣でもあるという事。
また持病とも言えそうだ。
ただ、この病気の病原体「フィツシングウイルス」に効くワクチンは、いまだ開発されてはいない。研究者だっているはずもないよね。



2009年12月21日(金)
童話 【海月(くらげ)】


真夏の明るい太陽の光がやっと届くかという海底の岩場に、イソギンチャクの一家が穏やかな海流に育まれて、ひっそりと暮らしておりました。
長くて太い触手を大きく揺り動かしているのはお父さんです。
細くて少し赤みのある触手を遠慮がちに揺らしているのがお母さん。
まだ小さいけれど、精一杯お父さんの真似をして頑張っているのが二人の大事な大事な息子です。
三人は、いつから此処に住んでいるのかも解らなくなるほど長い年月、ここで暮らしていたのでした。
ここには家族を脅かすようなものは、ほとんどと言って良いくらいありません。
たまに大きな魚が近づいてくることもありましたが、それだって、敏感な触手を持っている親子はすぐに気がつくことができるので、サッと体を縮めさえ
すれば良い事。
海の表面は嵐で大荒れになる事もありましたが、そんな時だってここは全く静かなものでした。
ゆっくりと、ただ時間だけが黙って通り過ぎるばかりの日々でありました。

あるとき子供が唐突に言いました。
「お父さん、海の外ってどんな所なの」
すこし考えていたお父さんが言いました。
「お父さんにもよく解らないよ」
イソギンチャクは海の中の岩場に根を張ったようにしっかりと取り付いて生きています。
そこから一歩も動くことは出来無いのですから解るはずもありませんし、海の外なんて考えた事さえありませんでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・。
永い間何かを思い出そうとして考え込んでいたお父さんが口を開きました。
「ずーと以前、蟹のおじさんに聞いた事があるな、海の外へ出たことがあるって」
「なんでも、その時は夜なのにとても明るかったらしいよ」
「夜なのに明るかったの?」
「蟹のおじさんが言うには、青白くて丸い大きな”月”というものが真上に光っていて、海をずーと遠くまでキラキラ照らしていたんだそうな」
「それはそれは美しい光景だったそうだよ」
「月?、月ってなあにお父さん」

「僕、見てみたい!」
横で二人の話を黙って聞いていたお母さんが言いました。
「おとうさん、だめよそんな話し子供にしちゃ、私達はここでしか暮らせないのよ」
「一歩だって歩く事なんか出来ないけどその代り、ずっとずっと安全に暮らしていけるんだから」
でもお前・・・。
お父さんは何かいいかけましたが、フッと小さなため息をつくとそれっきり黙ってしまったのでした。

それ以来、子供は月の事ばかり考えろようになってしまいました。
見たい、見たい、見たい、見たい、月を見てみたい。
毎日、毎日、ここからは見ることが出来ない月を見る為に、夜も遅くまで寝ないで頑張ってしまうのです。
お母さんが心配して、「早く寝なさい!」って叱ってもうわの空です。
お父さんが「俺の勘違いだったかも」なんて言っても、もう聞く耳は持ちません。
そうこうしている内にだんだん寝不足で体も弱ってきてしまいました。
疲れはてて、昼間からウトウトしていた子供が夜中にふと目を覚ましました。
なにげなく水面を見上げると、そこには白く丸い月が浮かんでいるではありませんか。
「お父さん、お母さん、起きてよ起きて!」
「月だよ、月があるよ」
眠たい目をこすりながら、ようやくお父さんが起きました、お母さんも目をさましました。
しかし、二人がそこに見たものは、海面に漂う丸い大きな白いクラゲだったのです。
三人は、本当の月の光を受けて輝きながらゆっくりと海面を漂う海の月を、いつまでもいつまでも黙って見上げておりました。
もう、子供にも解っているのです。
「でもいいんだ、これが僕の月なんだから」
そう言うと子供は優しい笑みを浮かべ、やがてスヤスヤと深い眠りに落ちていったのでした。

この日、子供は少し大人になったのでしょうか、それとも・・・・・・
                                                                               おわり




2010年3月25日(木)

釣友からのメール


今日パソコンを開くと、釣友D氏からこんなメールが入ってていた



tsurioyajiさん
 
先週水曜日の釣り行きHPにて拝見致しました。
世話の方が大変でしたね!ご苦労様でした。
画像を見て刺激されたと言う訳ではないのですが昨日休んで白浜へ,また例によって午後の釣りで竿をだしたのは2時半位から,西川名手前の相浜とゆう場所で上物の実績がなかったんですが、釣れましたよ。
35cmを頭に8枚自慢です。                      釣友「D」より


自慢されてしまいました。ああ悔しい!
悔しいので、言います。
「随分栄養不足で痩せたメジナですね~」「南房総方面は暑いので、日に焼けてますね~」あと文句つけるとこなんかないかな。


2010年3月27日(土)
魚釣り回顧録「序章」が書ける。

高校の同級生2人、小学校から高校までずっと同じ学校だった友人1人と、卒業した横浜の小学校裏手にある「幸ヶ谷公園」で花見をする事となった。
この場所に行くのは考えてみると、なんと45年ぶり。
気が急いて早目に東京の我が家を出たので、約束の時間よりかなり早く到着しそうだ。そこで、昔、通っていた中学校近くの駅から当時の通学路を歩いてみる事にした。
殆ど記憶にある風景や店舗などは無い。
半世紀近くの年月が過ぎているのだから当然の事、しかし何処かに懐かしい場所があるのではと探しながら歩く。
やがて、東海道線・京浜急行線・京浜東北線・貨物線など多くの電車が眼下を通る青木橋という場所に差しかかり、行き交う列車を何とは無しにボーっと眺めていた。
暫くすると、赤いヘルメットを被った二人の小さな子供を連れたお父さんがやって来て、子供に走る電車の説明を始めたのだ。

その瞬間だった、私の脳内記憶回路に音も無くスイッチが入ったのは。
そうだこの場所こそは、まだ小学校入学前に父親の連れられて、電車を見に来た場所なのだ。
そう思い出すと、次から次へと小学校入学前の記憶がよみがえる。
その中に、私が釣り好きになった原点は隠れていた。
そうだ、これを書いておかなくては「魚釣り人生回顧」は完成とならない。
かくして、魚釣り人生回顧第一章の前に「序章」を追加するべく執筆に(執筆と言うほど大層なものではないが)入る事とした。
仕事の合間を縫ってのことだから、いつ完成するかは解らないが。


青木橋から東京方面を望む。
写真では解り辛いが、左側の石垣の色が少し違うところは、中を通っているガスの本管が爆発して夜中に盛大な火柱が上がった場所なのだ。
父と一緒に掛けつけて野次馬となり、ここからでも顔が熱かった事も思い出した。


4月2日(金) 【序章】を書いたが、内容は【あとがき】となってしまった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【あとがき】


2010年8月12日(木)

牡蠣あるいは牡蠣男爵

本来ここは私のいる場所ではない。
なぜなら、私くしこそは今や出荷量であの広島産をも凌駕しようという、誇り高き宮城産の生牡蠣なのだから。
一般に生食用の牡蠣といえば、細菌を除去する為、出荷前に紫外線殺菌装置にかけられ、牡蠣本来の旨みが薄れてしまうのが常だ。
しかし私は違う。
その生息水域の清浄さゆえに、水産担当部局より、そのままでの出荷を許されたエリート中のエリート。
もちろん貝毒や大腸菌、ノロウイルスなどとはまったくの無縁である事はいうまでもない
有史以前から私達は人間とともに生きてきた、その事は日本全国の貝塚から出土する仲間達のなきがらが証明してくれる。
人と共に歩んできた歴史有る崇高な食物の末裔の中のエリート、そんな私が何故。
一体誰が取り違えたのだ、流通経路をどう間違えたのか、どこで下賤な生食用牡蠣と混ざりあってしまったのか。
今、私は無限軌道を描き回転するコンベアの上にいる。人はここを回転寿司(一皿100円)と呼ぶ。
唯一私のプライドを支えているのは、他の物が一皿に二個づつ置かれているのに対し、私だけが一つだという事。
腹の上に申し訳程度にレモンの切れ端をのせられ、宗教施設でもないのに、輪廻を具現化したような装置の上でしみじみと人生(貝生)の無常を感じているばかりだった。

釣りの帰り道。
「今日も小メジナばっかり良く釣れたね」。それはそれでけっこう楽しかったけど・・・
「さて晩ごはんはいつもの回転寿司で済ませていこうか」
「あそこは安いし、美味しいからオレ大好き」
「うん、パパも結構気に入ってるんだ、あの店」
郊外型の回転寿司屋の駐車場に車を置き、派手なイルミネーションの付いた入口をくぐればそこは明るく広い店内。
「いらっしゃいませ、何名様ですか」大きな声が店中に響く。
見りゃすぐに二名だって事ぐらい判るだろう!と言うツッコミは声に出さず、指をVの字にして小さな声で「二人」と答える。
カウンターに案内されて、まずは自分でお茶を入れる。
空腹ですぐにでも寿司を取りたいのはやまやまなのだが、敢てゆっくりとお茶を入れる、間をとる、溜める、この儀式も回転寿司の醍醐味の一つ。
さてと、ベルトコンベア上を見渡し、おもむろに「しめ鯖」を取る、次に「鮪」、「縁側」と一気に食べる、これでとりあえず腹は落ち着く。
その後は、メニューをゆっくり見渡して注文を入れるのが私のいつものやり方。
もう私より遥かに食物摂取量の多い息子は、二貫ずつ口に入れるからあっという間に寿司皿は積み重なってゆく。

さっきから気になっていた事がある。
ベルトコンベア上を行儀よく連なって回る寿司達の皿から少し間隔をおいて流れている牡蠣。
多分単価が高いのだろう、皿の上に一つだけチョコンと乗せられてまさに孤高の様相、見渡しても仲間はいない。
しかし、その身は乾き、10分前いや15分前には張りのあるプリプリの身でいかにも旨そうなものだったろうに、今は見る影もない。
誰か取ってやらないかな、私は生牡蠣は嫌いだから無理。
何十回さらし者になりながら廻り続けているのだろう、もう勘弁してやれ。
そうこうする内に又目の前を通る、そのまま目で追っているとやがてベルトコンベアは調理場へと牡蠣を送り込んだ。
もう調理場で撤去するだろう、いくらなんでも。
調理場からの出口を横目で監視しながら赤貝に醤油をつけ口に運ぶ、と、そのとき。
見るも無残とはこの事か、牡蠣の握りは斜め横に倒れかかりその身はだらしなく、くたっと皿に垂れ下がっているではないか。
Oh No!助けてやってくれ!誰か、誰か、お願いだから取ってやってくれ。
調理場の店員、なにをやっているんだ、誇り高かったであろうあの牡蠣をこんな目にあわせていいのか。
一体君達はなんだ、魚介類の提供をなりわいとして日々の糧を得ているのではないのか、ネタへの愛情は無いのか。
また来る、私の前に又来る、もう限界だ、Oh God!

まさに、私の前を通り過ぎようとしたその刹那。
なんと、その皿は息子の手によって回転台から取り去られたのだった。
「エッ、それ食べるの?」
「いや、食べないけどなんとなく」
「パパ帰ろうか、もうお腹一杯だし」
「ああ、ああ。そうだね、うん、うん」

かくして、息子の機転と美意識、さらには私の財布から出た余計な100円の出費で彼は救われた。
レジから垣間見た、うず高く積まれた皿の一番上に鎮座する彼の姿は、頭をことさらに深くうなだれ、何かを、何かを祈るように見えたのは私の思い過ごしだろうか。



2011年2月9日(水)
<断 煙>

昨年101日、値段が大幅に上がるのと同時にタバコを止めた。
禁煙ではない、タバコを吸う習慣を断ったのだ。断煙、つまり二度と喫煙をする事は無い。
思えば永い喫煙人生であった、本格的な喫煙習慣がついたのは大学生の頃だったろうか。それ以前にもいたずらに吸った事はあるが、タバコ無しでいられなくなったのはそのころからの事。
おおよそ
40年、毎日2030本を吸い続けたのだが、世間で言われるほど健康に害があった訳では無い。
それともこれから報いがやってくるのかしら。

タバコを止めたことによる弊害は多い、平均88㎏だった体重は現在95㎏~96㎏と7㎏程度は確実に太った。
昔のスーツが着れないのは致し方ないとしても、それ以上に困っているのは体調不良だ。
まず味覚がおかしくなった、口内からヤニが消えて敏感になったのだろうが、やたら塩味と酸味が強調されて食べ物が美味しくない。
次に出たのは目の不調、右目と左目の画像が一つにならず、二重に見えてしまう現象がたびたび起こるようになる。
大学病院で脳も含めて検査をしてみたのだが原因は不明。
その他にも指先の痺れや少しの運動でもやたら疲れる、といった私の人生において不可欠な「釣行」にも影響しそうな事態が断煙後からずっと続いているのは本当に困ったものだ。

もっともこれらの症状が断煙ゆえの肥満が原因となっているのか、他に何らかの健康上の理由があるのか、あるいは単に加齢によるものなのか、本当のところ判りはしない。
以前にも増して駐車場所から近い楽な釣り場ばかり選ぶ事になるかも知れないが、それでも釣りさえ出来ればまあいいか。
喫煙をまた始める・・・、なんて選択肢は無いよね。無い無い。ホント無いから。



2011516日(水)
隠れ横浜ファン
           

あれは小学校の低学年の頃だったと思う・・・・・・・
近所に住んでいた親友で同級生「ガラス屋のヒロちゃん」は私の将棋のライバル。
     
休みの日、ガラス屋の二階に入り浸って日がな一日将棋を差す。
     
こんな事が許されたのは、ヒロちゃんのご両親が私を歓迎してくれていたからだ。
     
当時、私はこの町では何かにつけ一目置かれる子供。
     
学校の成績も飛びぬけて良かったし、先生達の信任も厚かった。
     
そんな訳だから、大抵の同級生の家では私が訪れるのを喜んでくれたのだ。
    
なぜ成績が良かったかと云うと、結核で家でゴロゴロしていた父が私が小さい頃から、暇に任せて英才教育を施していたから。

将棋だってそこいらの大人とすでに互角に戦える位の腕はあった。もちろんヒロちゃんに将棋を教えたのも私なのだが、何事にも真剣に取り組む彼は、すぐに私と肩を並べる腕前となった。
     
そんな仲良しの二人を当時お金持ちだったヒロちゃんのお父さんは、よく映画に連れていってくれた。
     
白黒のニュース映画は、
54321とスクリーンに出た数字を皆で読み上げると始まるのだ。    
ニュースの後は大抵デズニーの漫画映画だったと思う。
     
一度だけ野球にも連れていってもらった。
     
川崎球場はその頃大洋ホエールズの本拠地、たぶん三原マジックなどと云われ大洋が優勝してしまった年だったのだろう、それはそれは大変な騒ぎだった。
     
そのとき、試合後の的当てゲームか何かで鯨の缶詰をもらって帰り、父がとても喜んでくれた記憶がある。
私はそれ以来のコテコテの大洋ファン、しかし普段は隠している。(辛いから)
     
なにせその後は大魔神とマシンガン打戦を擁して優勝するまでなんと
38年もかかってしまったのだから・・・・・・    
昨日、子供を連れて横浜球場へ始めてベイスターズの試合を見にいった。    
弱い! ベイスターズになっても本当に弱い、対戦相手のヤクルトの選手とは一人ひとりのモチベーションが違いすぎるように見受けられる。久し振りに声を張り上げて声援したけれどやっぱり負けてしまった。
     
子供をベイスターズファンにすることも出来やしません。辛いです。
     
外野席で10年も20年も声援を送り続けている応援団の皆さん本当に頭が下がります。     
皆さんには本当に申し訳ありませんが、私はやっぱり地下に潜ります。隠れ大洋ファンとして、せめて
Aクラスに入るまでじっと潜伏です。     


ホントお願いしますよ~。(松坂さ~ん、早く帰ってきて~!)
   



2011年8月18日(木)
ゴルフコースデビュー


お盆やすみの15日、メンバーになっている浜松のゴルフ場で薄暮プレー(9ホール)を息子と二人で回った。
息子にとっては始めての本格的なゴルフコースでのプレーとなったが、ハーフ67はすばらしく立派なスコアである。

今から20年以上前、出版社の広告キャンペーンで16人分のゴルフプレー権を獲得した私は、その出版社の勧めもあって当社の顧客をお呼びしてゴルフコンペを開催する事となった。コンペ開催は3ヵ月後。
ゴルフを全くなめていた私は、「3ヵ月も練習すれば楽勝」、「あんな止まっているボールを打つ年寄りのスポーツなんて、本気で練習すればプロにだってなれるぜ」とたかをくくっていたのだが・・・
イザ練習をはじめてみると当たらない当たらない。
たまに当たれば右に左に大曲り、しかも飛ばない。
友人に頼んでショートコースへ連れて行ってもらうが、少しも上手くはならないのだ。
しかたなく、せめてルールやマナーだけでも完璧にと猛勉強。
かくして運命の日はやって来た。
御殿場のとあるコースでデビュー。
と、そこで思いがけない事態が勃発。晴天の霹靂とはこの事か。
顧客の一人が初コンペなのだから主催者は始球式をするべきだと、いきなりスタートホールのティーグラウンドにスモークボールをティーアップしたのだった。
エー!聞いてないよ~。
スタートホールには本日のコンペ参加者が一同に会して取り囲んでいる。
大緊張のなか第一打・・・空振り。 ドッと笑いの渦。(ヤッチマッタイ)
二回目、また空振り、失笑が静かに広がる。(あせる、あせる)
三回目、また空振り、ついに誰からも笑いは起きず、中には横を向いて、見ていなかった振りをする心優しい方もいる。(ここいらへんから少し記憶が飛ぶ)
四回目、頭の中は真っ白、「なんとか当たってくれ~」と取り巻く人たちの念が痛い程伝わってくる。
無意識の状態で振り切ったクラブの先へ白い煙の尾をひいて舞い上がるボールは、ようやく秋空に吸い込まれていったのである。
万来の拍手の中、こうして私の悲惨なゴルフコースデビューはスタートを切ったのだが、
いくつで回ったかは全く記憶にございませんわ。

その後、私は自宅マンションの駐車場契約を解約し、2~3キロ離れたゴルフ練習場の駐車場を契約。
つまり、会社の帰りはゴルフ練習場の駐車場に車を置かなければ家に帰れないようにしたのだ。
そんな生活を1年続けてみたが、結果はやっと100を切れるようになっただけなのである・・・・・・・。
ゴルフ恐るべし!(釣りより難しいよ~)


   


2011年10月5日(水)
阿波の釣り人は語る

 年に一度、製紙関係の大きなイベントが全国で場所を変えて開催される。昨年は富山、一昨年は仙台だった、そして今年は徳島である。毎年顔を出す事にしているイベントであり、今年も早くから飛行機の切符は手配してある。しかし今回は開催日が近づくにつれなんだか気持ちが落ち着かない。徳島かあ〜、阿波だよね〜。
 そしてその朝は来た。午前7
:30分、羽田発徳島空港行きのジェット機は自分でもよく解らない期待を胸に抱えた私を乗せて小糠雨の舞い降りる滑走路を轟音と共に舞い上がっていった。 
 徳島は全国の磯釣りを席巻している阿波釣法発祥の地である。釣法と言うからすぐに中通しの円錐浮きを使って仕掛けを潮に同化させたり止めて誘ったりするフカセ釣りをイメージするかと思うが、実は阿波釣法とはそうした道具や釣技の事だけではないのだ。それは子供の頃から釣りの技術を段階的に覚えると共に安全に関する知識や釣り場でのマナーを習得する事によって得られる人格形成にさえ深く関与したこの地方独特の釣りのシステムの事なのである。徳島の釣り名人高橋康生氏は彼の著書「最新磯釣り入門」(昭和57年初版刊行)の中でそのシステムを、小学校から大学卒業までの進学過程に例えて説明している。つまり小学生が汐入川の釣り、中学生が堤防の釣り、高校生が小磯の釣り、大学生が荒磯の釣り、そしてその全ての過程で仕掛けや釣りの技術、潮や風に関する知識、安全とマナーに関する知識を習得するのだという。そうした土地柄だからこそ全国に名を馳せる磯釣りの名人が次から次へとキラ星のごとく登場するのであろう。仕事とはいえその徳島へ行くのだ、どんな出会いがあってもおかしくないじゃないか。時間があったら釣り場も見てこよう、今は高橋康生さんの息子さんが経営しているという「たかはし釣具店」にも寄ってみよう。名人達がよく集っていると聞く。
 徳島あわおどり空港(なんじゃこのベタなネーミングは)からレンタカーで慣れない道をナビを頼りに会場へ向かう、会場到着午前
1000。すぐに仕事にかかるが、なにせ出店しているお客様の数が多い、午前中では半分もご挨拶を終える事が出来なかった。
 昼休み、会場の周りを流れる汐入川(園瀬川河口)の護岸を散策する。・・・やっぱり居た、お一人だけ。しばらく黙って見物させてもらう事にする、エビ撒き釣りだ。1号・5mぐらいの磯竿に浮きはプロ山本浮き。「何が釣れるんですか?」と話かけると私より少し年上かと思われる阿波の釣り人は、霧雨の中を傘もささずに背広姿で見学していた私をすぐに同じ病(魚釣り病)の患者と判断したのだろう、至極丁寧に狙いの魚、釣り方、餌の種類から餌の付け方、潮時の判断、はては最近の徳島の磯釣り事情まで解説をしてくれたのだった。その間にもキビレをポツリポツリと釣りあげる。熟練の手馴れた竿さばきは見事なものだし、お話も興味深く途切れがないので、なかなか「有難うございました失礼します」と言う言葉を発する機会が掴めない。しまいにはしっかりと全身ズブ濡れになってしまったのでありました。
 午後からの挨拶回りを一通り済ませると、地元池田高校出身で元巨人軍のピッチャーであり、コーチも歴任し最近はテレビの解説者としても活躍している水野氏の講演があるという。こちらも是非にと勧められたので聴講することとした、結局阿波の釣り場やたかはし釣具店へ行く時間はありません。
 午後
630分徳島あわおどり空港発東京羽田行きの最終便に飛び乗り席に着くとすぐに飛行機は離陸を始める、眼下にはもう少し明かるければ雄大な鳴門大橋と瀬戸内海が一望できるはず、やれやれとやっと一息。
 今日出会った阿波の釣り人が別れ際に言った言葉を思いだす。「ここらの魚は川底がヘドロで汚れちょって食べられんきに猫の餌にするんじゃ」。徳島でもそうなのか。日本国中、河口は汚れている所が多い、工場排水こそ規制で少なくなったけれど有機物を多く含んだ生活排水は流域が発展すれば必ず増えるのは仕方の無いことなのだろうが、なんとかならないものかね。
それでも釣り人は魚を釣るんだから。


   



2012年4月7日(土)
揃っちゃいけない四の倍数人


今年も桜の季節がやってきました。
横浜在住の友人の音頭で悪友5人が集まる事となったのだが、現地に到着してみると、急用で一名来られなくなったという。
このメンバーで男四人、きわめて危険な人数である。
各自持ち寄った酒を飲み、肴をいただいて一時間あまりの短い酒宴も、吹く風の冷たさに追われ終了。
さて、この後は暖かい部屋でテーブルを囲んで会合でも、となるのは自然の成り行き。
結局雀荘での二次会となってしまったのであります。
我々団塊世代は学生運動世代、本気で共産革命を目指していた輩も多かったのだ。
当然、中国の主要な文化と言える麻雀も、しっかり学んでいたのであ~る。


 
                                                       ※日本文化のチンチロリンも学んでおります。


2012年11月25日(日)
釣り糸カッター


月に一度、高校時代の同級生達と横浜の某所でマージャンをする事となってもう一年以上が経つ。
成績はというと皆同じような腕前だけに勝ったり負けたりで、少し長いスパンで見れば結局勝ち負け無しという極めて平和な、その後の食事・飲酒を楽しむ為の口実のような麻雀である。
一度、私の代わりにスマートホンのゲームでしかやったことが無い息子(高校生)が参戦した事があるのだが、何だか知らないが勝ってしまった。
まったく優しい(下手糞な)オジサン達ですな~。

その日の集合は午後一時、私の家(東京)からは電車で行くと小一時間かかる。
遅刻しては何を言われるか分からないのでなるべく早く家を出るのだが、いかんせん早く到着しすぎた。
しかたなく一人で昼食でも食べようと、雀荘の親父に聞いた「とんかつ屋」さんに入ったのだが、これがなんと大当たり。
値段の割には分厚い肉で揚げ具合も文句なし。
こりゃ旨いとガツガツと食べていると突然、ガキッという感触が口の中に走ったのだ。
食事に何か異物が混入していた訳ではない、単に加齢によって弱くなった歯がトンカツに負けただけのこと。
前歯の少し後ろ、犬歯との間の歯が少し欠けた、まあしかたがないか。
その時はそんなふうにしか考えなかったのだが・・・

次の週、いつもの釣行、三浦半島は毘沙門の磯で支度をしていて気がついた。
何十年という釣行で、もうすっかり身に付いてしまっている仕掛け造りの一連の動作の中、余ったハリスを口で切ろうとしたのだがなんと、切るべき場所が無いのである。
この歯だったのだ!
3号や4号のハリスはもちろんの事、石鯛をやっていたころは20号の道糸だってこの歯が切っていたのだ。
何十年と酷使してきた肉体の道具を失って始めて解かったこの不便さ、この気持ちの悪さ。
ありがとう、ありがとう私の糸切り歯、感謝するのが遅すぎました。
丈夫な内にもっと大事に大切にすれば良かった、後悔してももう手遅れです。
これからは、金属のハサミをライフジャケットの胸にぶら下げます、本当にごめんなさい愛しの「釣り糸カッター」さん。

その後この歯がどうなったかというと・・・・・・
機嫌を損ね、欠けたところから自ら雑菌を侵入させて化膿状態を演出、永く抗生物質と戦った後も強烈な虫歯となって未だに満足な食事もさせてもらえない程に、私を苦しめ続けているのであります。
助けてー歯医者さん。
自業自得?

                                                      






2013年7月6日(土)
波たちぬ


梅雨が明けたその日、見渡す限りの湾の中に白い躯体を並べた帆船(ヨット)と岸壁との僅かな空間から竿をだして熱心に竿を打ち返す私にひそやかな風はかすかに流れるばかりであった、気温は優に30度を超えたであろう、暑い。
そうして日がな一日おまえ(黒鯛)との偶然なる出会いを辛抱強く待ち続ける私の視線のはるか彼方なる水平線に湧く縁だけ茜色を帯びた入道雲は、ようやく暮れかかろうとする夏の太陽に呼応して次第にその色を無くしていくのだった。
代わりにその下に湛えられた豊穣の海からは何者かの濃密な気配が生まれ始めようとしている。そうしてその気配は次第に私の周辺に近づき始めるようでもあった。

足元の前下がりに広がっている敷石と敷石とのわずかな隙間をようやくのことですり抜けた海水はやがて小さな波紋となってほとんどあるかなしかの波を敷石の先に作っている。
そんな光景を何か切ないような気持ちで見つめていたそのとき、ふいにどこからともなく大きな波が立った。

それと同時に目の前の帆船(ヨット)の群れはその姿勢を各々の体内周期に合わせるかのようにそれぞれ別々の動きで揺れはじめ不規則な波を起こすのだった。やがてそれは私の竿の先にわずかな浮力をたよりに浮いていたおまえ(黒鯛)との唯一の連絡手段である浮子をも揺さぶることとなる。

波たちぬ、いざ釣りめやも
ふと口を衝いて出てきたそんな詩句を、私は右手に保持されている私自身(がま磯アテンダーⅡ・0.6号)を強く握りかえしながら口の裡(うち)で繰り返していた。
やがて、竿先まで綺麗に引き込んでおまえはやって来た。
すぐにでも私の胸(玉網)に飛び込みたいであろう気持ちとは裏腹に恋人達が初めそうするようにおまえは形ばかりのいやいやをしながら、最後には「仕方ないわね」といった風情で白銀の肢体をくねらせて私の手の内に納まったのである。(黒鯛
60㎝)
720日公開の宮崎駿のアニメ「風たちぬ」が楽しみで、堀辰雄の「風たちぬ」を読み返していたらこんな妄想をしてしまった。
実際は熱中症を恐れて黒鯛釣りには行けなかったのでありました。すまん!


2014年5月1日(木)
新車が届いた(30式プリウスとタママ様)


10年間乗り続けたトヨタ20式プリウスは既に走行距離22万㎞に達する。いつ故障が起きてもおかしくない、というよりハイブリッドシステム(特に動力用電池)がノーメンテナンスでこんなに長持ちするとは思っても
みなかった。この間に交換したのは補機用のバッテリー、ブレーキパット、ショックアブソーバー、タイヤ・ホイールと、いわば消耗品だけ、本当によく走ってくれたものである。(感謝!)
さて、下取りに出す今の車のリヤトランクや室内にあるものを整理しておかなくてはと思い立ったのは、新車が来るという前日の夜。
大きなビニール袋に山盛り2杯、適当に詰め込んで部屋に戻り、ようやっと仕訳作業にはいったのであります。
要るものと要らない物を機械的に分けていると、なんとまあ10年間にため込んだゴミの多い事。しかしその中に一つ、私が思わす手を止めたものがありました。それは手垢とススで汚れたぬいぐるみ、「タママ二等兵」なのでありました。
今を去る事8年前、当時10歳前後だった息子と房総方面へ釣りに行く道すがら、海ほたるのゲームセンターにあったクレーンゲームで手に入れたもの。それ依頼ずっーとプリウスのシフトレバーにぶら下がっていたのでありますぅ!。
タママさんを捨ててはいけない。きっと今まで無事故でいられたのも彼のおかげ?が少しはあるのかも知れないし、綺麗にしてまた車に居てもらわなければ・・・。しかし2006年製のメイドインチャイナは洗濯に耐えられるのか?
結果は「タママ二等兵見事に復活!」であります、ほころび一つなく綺麗に蘇ったのでありました。中国製を見直しましたですぅ~!
という訳で、今は30式プリウスのウインカーレバーに下がって、変わらぬ笑みを私に送り続けてくれているのであります。




 
 ●タママ二等兵ですぅ!

 

 《タママさん又ヨロシクね。》


 2014年6月8日(日)
 海と野菜と子供たち


 今年もベランダ菜園を始めた。居間の私の定位置から少し首を伸ばせば野菜たちが見える。
 最近若い人がよく言うく言葉に「癒される」というのがあるが、今一つ私にはこの感覚が良く解らなかったのだが、
 ベランダの野菜たちを見ていて気が付いた。これが「癒される~」という事なんだろうな。
 これって、釣り場に到着して海を見渡している時と、PTA活動をしていた時分に子供達と関わっていた時と、ほとんど同じ感覚だな~。
 今日、以前PTA会長をしていた中学校の生徒会長から6月14日(土)に開催される運動会への招待状が届いた。
 でも、今週末の土曜日は千葉の釣友Dさんと釣りに行く約束があるんだがな~。さてどうしたものか。
 早く大きくな~れ! 魚と野菜と子供たち。

   
 6月8日(日)     ピーマン                      キューリ                     トマト

   

 6月29日(日)キューり初収穫           7月13日(日)トマト初収穫             7月27(日)日ピーマン初収穫


 2014年8月21日(木)
 ベイスターズ完勝(横浜3-0広島)


 久しぶりに横浜球場へベイスターズの応援に行ってまいりました。
 友人K君が内野の最上階にある「パーティースカイデッキ」なる席を確保してくれたのであります。
 私と息子、K君とAちゃんの4人掛けで、ソファーやテーブルもついたほんとにGOOD!な座席なのでありました。
 大量に仕入れた弁当やおかずをつまみに、ビール・ハイボールでほろ酔い気分。まさに大名気分の観戦であります。
 しかも、この夜の戦いはというと「こんなベイスターズがなんで5位に留まっているんだ」と思うような絵にかいたような完勝であります。
 番長三浦が7回まで無失点、ワンポイントの加賀と林が見事につなぎ、最後は三上が簡単に三人を切って取る。攻撃の方はやや低調では
 あったものの、犠牲フライや黒羽の本当に見事なバンドなどでそつなく得点をかさねる。まさにここ何年も見たことが無かった完全勝利なの
 でありました。
 こんな試合ができるなら、Aクラス入りだって見えてくるんじゃないんでしょうか。って身びいきが過ぎますね、明日からまたどうなる事やら。
 負けになれてしまっている古い横浜ファンは、まったく信じてなんかいないのです。でも、一夜の夢を あ・り・が・と!


 


 2015年1月1日(祝)
 10年前に書いた手紙


 10年後への手紙(1/2成人式の息子に)

 ●20歳になった時、君がもしプロのサッカー選手になって活躍していたら思い出して欲しい。
  毎朝、眠いのに寒いのに辛いのに、6時に起きてトレーニングした事を、そしてそれを支えてくれた由美子姉さんや一緒に走ってくれ
  た友達を。
  そしてサッカーをたくさん教えてくれた、クラブのみんなにもいっぱい感謝するといい。

 ●君がもし、東京大学に入学していたら思い出して欲しい。
  「学校行きたくな~い」「塾行きたくな~い」なんて、しょっちゅう文句を言いながらも良く頑張っていたことを。
  そして勉強を教えてくれた先生や小さいころから算数好きになった基礎を作ってくれたママにも、いっぱいいっぱい感謝しなさい。

 ●君がもし、普通の大学生か普通のサラリーマンになっていたら思い出すといい。
  自分の意思をまだ主張出来ないほど赤ちゃんだったころ、君は中国にいたね。何度か帰ってき来た時会ったけど日本語はほとんどし
  ゃべれなかったんだ。でも日本に帰ってきてからは、たくさん遊んでたくさんスポーツして勉強もしたね。
  大きな怪我や病気ひとつしない大きくて丈夫な体は、何万年も何十万年もの間ご先祖さま達に引き継がれてきた遺伝子と、丈夫に育
  ててくれた北京のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんのおかげだね。 謝謝! 謝謝! 謝謝!

 ●君がどんな暮らしをしていたって。
  たとえば大泥棒や、やくざになって刑務所に入っていようが、たとえば大病に罹って入院していようが、たとえば軍隊に入って見知らぬ
  他国の戦場で戦っていようが、たとえばまだ信じる道を見つけらずにフリーターをしていたってあせる事はない。ゆっくり考えればいい
  んだ、人生はまだまだ長いんだから。


  パパは君の味方です。どんな時でもどんな場所でも、必ず必ず必ず味方です。だから安心して好きな道に進みなさい。 
  感謝は不要です、君に愛する人が出来て、結婚して子供が出来た時、同じようにしてあげればいいんだ。
  パパが大学生の時死んだお祖父ちゃんに、ずっとそうして貰ったようにね。 1/2成人式おめでとう! 
                  2005年11月11日
                                                                             パパより


 ※あれから10年、今年(2015年)息子は成人となる。 



今年(2015年)もベランダ野菜(キユーリ)始めました。

 2015年5月31日(日)   2015年6月7日(日)
 今年のベランダ野菜(キューリ)種まき

NO PHOTO
 今年は種からの栽培に挑戦です。  いまやっと双葉が出たところ。
  
 2015年7月12日(日) 2015年7月18日(日) 
 
 小さい実がなりました。 今年の初収穫です。 


今年(2016年)はメロン栽培に挑戦します。

5月7日 昨年の土に腐葉土と連作障害防止剤、
肥料を加えて苗の植え付け。
 
5月21日 雑草除去 枝芽除去。
 7月10日 
果実は順調に生育中も、葉は少し枯れ始めている。
   7月24日 立派なメロンを3個収穫。
食べごろは5日後あたり
全くの素人でもできるもんですな~。残り3個は今週末に収穫予定。

 ※収穫6日後、生ハムメロンにして食すも、味はイマイチ。糖度不足は否めない、来年も再挑戦か?



2017年はベランダ野菜の原点に還ってキューリ・トマト・ナス(5月20日植え付け)


                                           今年の初物                                           

2018年は赤ピーマン・黄色ピーマン・トマトの三本建て

本当は赤・黄・緑の三色でやりたかったのだが、サカタのタネで緑は売り切れ(5月12日)残念!

2018年5月
古い友人『大串哲』の素晴らしい写真展に行って来た。

彼もまた海の仲間だ。

東京の竹芝桟橋より船に揺られて8時間南下した御蔵島に彼らは居る。
地元の方の導きにより、そっと海に入れば彼らは私をジッと見つめてくる。年老いたイルカの眼差しはどこまでも優しく、若いイルカはやんちゃ坊主のクリクリ眼。二重まぶたの大きく丸い瞳で私を質問攻めにしてくる。
『今日の海は気持いいね!』『その服はなかなか素敵だね。』『船は揺れなかったかな?』
機嫌の良い時のイルカはとっても饒舌だ。
私は2015年の8月に初めて彼らと泳ぎ、御蔵島のイルカにすっかり魅了されてしまった。少しでも長く一緒に泳ぎたいとフリーダイビングを始め、気がつくと息止めの時間は7分を超え、日本代表として世界選手権に出場するまでになった。その経験は水への親しみをより確かなものにし、静かに、より深い海の世界へと私を導いて行く。御蔵島のゆったりとした時の流れはどこか懐かしく、少年時代の夏休みを思わせる。友達と野原を駆け回った子供のころのように、イルカと心通わせ何時までも一緒に泳いでいたい。彼らの眼差しには、大人に童心を取り戻させてくれる力がある。
大串哲


2018年8月

パプリカ豊作であります。

 プリウスα 納車であります。
先々代のプリウスから搭乗しているタママ二等兵も4年ぶりに入浴(洗濯)して、
新車に乗ることと相成りました。またヨロシクネ!

2019年ベランダ

今年は朝顔、やっと咲いた(8月8日)